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槇野知宏

Author:槇野知宏
宮崎県児湯郡生まれ。
宮崎県児湯郡在住。

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(特に3と4)
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を偏愛する会社員
その実態は、単なるオタク。

年を取る毎に深みにハマってますが、これも人生、問題ない、と開き直ってます(笑)

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2017/08/20 (Sun) 20:49
先週のテレビで・・・

 こんばんわ、槇野知宏です。
先週くらいに国営放送で「インパール作戦」(オレ的表現だと「日本陸軍史上最低最悪の自滅戦」)の特集がありましたが、見てたけど「ホント、こんな作戦を考えたヤツも認可したヤツもアホだよなあ」と思いましたわ。
 まあ、ぶっちゃけインパール作戦は個人的な感情と政情が重なった作戦であり、動員された将兵がそれを知ったら「ふざけるな、バカヤロー」と非難されてもおかしくはないでしょうしね(実際、作戦を指揮した牟田口廉也中将は「ムチャグチ」だのと批判され、戦後も自己正当化に走ってインパール作戦の生存者や遺族から批判されている)
 昭和一六年一二月八日、マレー半島コタバルに上陸した日本軍一気にはシンガポールを陥し、翌年五月までにはタイ、ビルマ(現ミャンマー)を掌握。
シンガポール、タイ、ビルマ防衛を担当していたイギリス軍は日本軍の速攻に追い立てられるように多数の物資や武器を放棄してインド方面に撤退。

 インパール作戦は三つの小型爆弾が爆発して、それが一気に数万の将兵を殺した、と思う。 

 一つ目の爆弾は個人の功名的野心である。インパール作戦を指揮した第一五軍司令官・牟田口廉也中将は「勲章と新聞記者と芸者が好き」と言われた目立ちたがりな人物であり、盧溝橋事件で戦闘命令を出した人物でもある(ちなみにこの戦闘にはガダルカナル島の戦闘で最初にアメリカ軍の餌食にされた一木清直大佐も参加している)
戦後、彼は「自分は盧溝橋事件のきっかけをつくり、それが日中戦争に拡大し、遂には大東亜戦争にまで進展してしまった。もし自分がインドに進攻し大東亜戦争に決定的な影響を与える事が出来れば、戦争の遠因を作った自分としては国家に対して申し訳が立つ。男子の本懐としても当にこの上なき事である」と回想している。

 もう二つの爆弾は政治的利用。
太平洋戦争時の日本のスローガンの一つに「アジア諸国の独立」というものがある。
開戦前の昭和一六年一一月の大本営政府連絡会議では「日独伊三国と共同してイギリスの屈服を図る。オーストラリア、インドに対して攻略または通商破壊等の手段でイギリス本土との連鎖を遮断して、その離反を策す。ビルマの独立を促進し、その成果をもってインドの独立を刺激する」(この時点で当時の軍首脳、政府首脳の目はインドに向けられていたが、実はその前からビルマ及びインドへの工作が行われていた)
 マレー半島の戦闘で降伏したイギリス軍に所属していたインド兵が多数投降している現状を見て「彼等を組織してインド攻略の部隊を作る」というインド工作案の骨子がまとめられ、これが後にチャンドラ・ボース自由インド仮政府主席率いるインド国民軍へと繋がる。
 インパール作戦が行われる前年に東京で大東亜会議が行われた。ここでは「大東亜共栄圏内のアジア諸国が一致団結して連合軍に立ち向かい、アジア民族の独立を死守しよう」という内外へのアピールも行われたが、この時期はソロモン諸島の攻防で劣勢が続き、アリューシャン列島のアッツ島、中部太平洋のマキン、タラワ守備隊は壊滅という「絶対国防圏」の外側に楔を打ち込まれた状態だったため必然的にインド方面に目が向けられるようになった。
 
 ラストは日本的な組織第一主義。
インパール作戦の最大の要因は考えたのはフィリピン、インドネシア、シンガポール方面の陸軍部隊を統括する南方軍の判断ミスであった。ビルマ占領が予想以上に上手くいったので、その余勢を駆ってインド方面へ進撃しようという積極的・・・というか無謀な意見が台頭し始めた。その理由が「敵の兵力は一〇個師団内外と判断されるが、過般のシンガポール、ビルマ等の戦闘から考えても、その戦力は問題にならない」と。
 南方軍から意見具申を受けた大本営は「二一号作戦」として作戦を南方軍に伝達。南方軍はビルマに駐屯していた第一五軍に「二一号作戦」準備命令を伝達したが、軍司令官の飯田祥二郎中将は第一五軍が保有する兵力(二個師団)でのインド進攻は不可能と考えていた。
 特にビルマからインドに至るまでの地形が作戦を困難にさせる、と見ていた。切り立った高い山脈、河床一〇〇〇メートルのチンドウィン河、複雑なジャングル地帯、そして雨季ともなれ各河谷が奔流し、赤痢、マラリアなどの疫痢が蔓延する。当然、交通も杜絶して作戦など実行できるワケがない。作戦を強行して失敗したら第一五軍の損害は甚大で、ビルマ防衛そのものを危うくする、と。
 取り敢えず作戦の中核部隊である第一八師団長の牟田口中将に作戦構想を内示して、彼に率直な意見を求めたが、牟田口中将は後方支援などの状況から考えて、実行は困難、と回答しているが、この時はニ一号作戦は上司の個人的な作戦と思って反対してしまったが、南方軍及び大本営の作戦構想と知って考えを改めた。作戦の中身としては反対であるが、組織の論理では「反対」と言えない。
 この「組織の論理」というのは、今の日本でも政党や官僚、企業などの組織に蔓延している悪しき価値観である。長い間、日本人はこの価値観を使用して国を繁栄させてきたが、その硬直した価値観のためにインパール作戦だけでなく、日本軍は各所で敗北を余儀なくされた。

 インパール作戦に参加した兵力は三個師団一〇万、戦死者数三万、傷病兵は四万以上と言われている。自分たちが相手を過小評価して机上の空論だけで作戦を進めた結果がこれである。牟田口中将の頭にあったのは数万の将兵が血を流した大地を軍馬に跨ってインパールに入るシーンを新聞記者に撮影され、昭和天皇から勲章を授与される事を妄想していたに違いない。
「勝てば名将、負ければ愚将」というイメージがつく。勝つにしろ負けるにしろ、それは多くの将兵を戦場で殺した事になる。このインパール作戦は味方の将兵を無駄死にさせたという点では、海軍のソロモン諸島における航空機逐次投入、アウトレンジ戦法、捷号作戦、天号作戦と並ぶ愚策だったであろう。


 ちと長々と書いたけど、やっぱ戦記作家にゃ向いてねえわな、オレはw


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